雨の日。
池の水面に泡(あわ)がポコッとできます。
木の葉にたまった水滴が落ちた瞬間にポッコリと泡が出現するのです。
京都の植物園に行った、人影も少ない静けさの中で、うまい具合に泡ができるのに感心した。
池の水面が水滴におされて少しへこんだ、その反動で上へあがるときパッと泡ができているのである。
自然に、音もなく、やっぱり人間ではああゆうふうにはできないだろう。
感心して見とれている私の目前で、できた泡がパッと散ります。
あとかたもなく、それはまた、見事な散りようでありました。
長い間水面にあった大きな泡が一瞬に消える。その瞬間はハッと引きこまれるような気持ちといっしょに、そのあとを追ってゆく思いが残る。
その消えた泡の反動が、輪になって水面を幾重にもわたってゆきます。
やがて、その波紋も収まってゆくと、何事もない静かな水面があるのでした。
泡がパット散るとき水面を下へ押すので、それが輪に広がってゆく。始めの泡ができるときから消えるまで、じっと見つめて、くり返しくり返し、長い間雨の中に立っていた。
人間も泡みたいなものですナァ。
先輩のお医者さまにお聞きした。
「先生は人のご臨終に立ち会われたことが多いでしょうが、皆さんはどんな風に逝(い)かれますか?」「イヤ、別にとりたてて、どうこうと言うことはありませんナァ。眠るのですナァ・・・あすの朝、眼がさめないだけのことですヮ。それは案外と楽なものだと思います」と三回も死にかけた(半分死んでいた)ご自分の体験を話して下さった。高電圧にふれたときは身体を板でパンパンたたかれているようで、とのときの空は美しい桃色だったとも言われた。
「病は身体のアンバランスで、死は平静の境地」病気と死をハッキリ二つに分別された。
その後、老先生は身体が弱って静養されていたが、私が四、五日上京していた間に急逝(きゅうせい)された。後日お悔やみに上がって、ご臨終の様子をソッと伺うと、奥様は「まだまだ生きていると思っていたのですが、ヒョッと気がついたら、なくなっていました」とさりげなく言われた。(先生のご病気は脳軟化症でした)
呼吸のとまる生の終着点を追っていって、私は猛烈に呼吸の始まりを見つめたくなった。
お彼岸にあたり、先輩ご一統様のご恩を今さらに感謝し、み灯(あか)しをかかげ、お花とお香をささげ奉る。
(写真家・ハナヤ勘兵衛)