昭和49年12月27日付 

良い顔!!

写真でご覧のように履き物をぬいで、白の玉石の上に正座拝礼しておられる。こんなお嬢ちゃんも一緒であった。

所は熊野市、産田神社である。またこの近く、花のいわやイザナミノミコトの御陵と伝えられる所でも、やはり同じ玉石が敷かれ、その上に正座両手をついて拝んでいる方があった。ここは日本書紀に「熊野有馬村に葬る」と書かれているように日本最古の神社であり、巨岩自体がご神体として崇拝されている。

海岸から奥へゆくとソレゾレの所に荘重な森がある。幹の周り五メートル余の大杉の集まりで、空高くそびえている。その奥のお社は簡素、白木、神明造り、静寂そのものである。年代の桁(けた)が違うというか、ここら辺りとは全く格がちがうのである。

これらの総本家とでもいえるのは、紀勢本線滝原駅で下車1.5キロのところに滝原宮(皇太神宮別宮)がある。鬱蒼(うっそう)と茂る杉の大森林は他に比類少なく、その中の参道を行く自分の足音に心を澄ましながらお参りした。本殿はお伊勢様に準じ神明造り、お屋根の鰹木(かつおぎ)は六本、千木が高くそびえ周囲は瑞垣(みずがき)玉垣があり、ここも美しい玉石が敷きつめられている。南には清らかな谷水が流れていて、手を洗い口を漱ぎ(すす)ぎ、せせらぎに耳を傾ける。ついにだれ一人とも会わなかったのである。

よく考えてみると、どこのお社にも森の横に清流があり、コケむした岩間を走る清流がある。久し振りにガマガエルとご対面したり、スマートな黒い糸トンボにも会った。


遠い遠い昔から、これらのお社をお守りしてきた方々はどんな具合であったのか。世のうつり変わりなどを逆に現代から先代へ、そのもう一つ前の時代へ次々とさかのぼって十代二十代前を考えるとき、庶民はどんな顔をし、どんな具合に暮らしていたのであろうか。

私らの祖父母の写真はあるとしても、そのもう一つ前の曾祖父母は何々院ナントカ居士・大姉の文字の彼方に居られる。たった三代前から向こうはこの始末であり、わずかに千六百年(関ヶ原の戦い)の記録があり、その前は源氏にさかのぼってゆく。

「写真百年」写真表現の歴史展があった。ラシャの陣羽織のズボン、イスに腰かけ左手に太刀を握り右手に短銃をもつ、頭はチョンマゲ(慶応)武士一家三人(幕末)青年が腕組みしている半身像(明治初期)などの写真が印象にに残っている。どの顔も今の顔と同じこと、よい顔をされている(あまりミミッチィのはない)。

どうやら、いつの時代でも顔は変わらぬのであろう!!

さて昭和五十年正月は大いに写真を撮って下さい。カラーと黒白両方ですゾ!!我々の曾孫そのまた先の孫々どもに「やっぱり昔も今と同じ顔をしてられるワイ」と言わすためにも。ここでようやく写真の話にたどりつきました。

これで冗語十七回、楽しく方言。深謝申し上げます。

(写真家・ハナヤ勘兵衛)